英語の間違いは失敗じゃない

英語教育・学習

英会話で、言いたいことが浮かんでいるのに口が動かない。過去形だったか、前置詞はatだったか、と考えているうちに講師が次の話題に移ってしまう。終わったあとに残るのは、話せなかったという感覚だけです。

間違いを避けると、それだけ代償を払うことになります。

学習では「たくさん間違えましょう」だけでは足りません。大事なのは、間違えた後で答え合わせをすることです。

間違いはなぜ学習に効くのか

思い出そうとして失敗したあとに正解を見ると、最初から正解を見せられるより記憶に残ることがあります。

Richland、Kornell、Kao の3人が2009年に報告した実験がこれを直接扱っています。参加者は、視覚についての文章を読みます。ここで条件は二つ。片方のグループは、文章を読む前に内容についてクイズを出されます。まだ読んでもいない内容なので、ほとんど答えられません。もう片方のグループはクイズなしで、同じ箇所を強調表示した文章をじっくり読む時間を与えられます。ところが後日のテストでは、5つの実験すべてで、最初にクイズを出された(そして答えられなかった)グループのほうが成績がよかったのです。しかもこの分析は事前テストで答えられなかった項目だけを対象にしています。

ここで働いているのは根性ではありません。答えようとして空振りした状態で正解に出会うと、同じ正解でも頭への残り方が変わるということです。

「望ましい」という条件

負荷なら何でもいいわけではありません。Bjork らは2020年の論文で、この点をわざわざ書いています。

望ましい困難(desirable difficulty )という言葉は誤解されやすい概念です。指導の場面で有害なだけの困難はいくらでもあります。望ましい困難が望ましいのは、学習を支える処理を引き起こすからです。ただし、学習者にそれへ対応できる知識や技能がなければ、同じ負荷でも望ましくない困難になります。最適な難しさは、その人がすでにどれだけ学んでいるかによって変わります。

もうひとつ、同じ論文が指摘していることがあります。速く上達しているように感じられる練習の仕方は、長期記憶に結びにくいことが多いと報告されています。逆に、手応えが悪く、進んでいる感じがしない練習の仕方のほうが、後になって効いてきます。だから学習者も教える側も、身についているかどうかを読み違えやすいということです。

気にしたほうがいい間違いと、気にしなくていい間違い

ほとんどの間違いは、放っておいて構いません。目を向ける価値があるのは、何度も同じ形で繰り返される少数のほうです。

また、完璧を目指すべきではありません。英会話の目標は通じることであって、ネイティブと同じ英語になる事ではありません。冠詞が一つ抜けても、前置詞を取り違えても、発音に日本語の影が残っても、話は通じます。通じている間違いを一つずつ潰していく作業は、かける労力に対して返ってくるものが少ない。そこに時間を使うより、言えることを増やすほうに回したほうがいいと私は考えています。

第二言語習得の研究には化石化(fossilization)という言葉があります。1972年に Larry Selinker が中間言語(interlanguage)という概念とともに導入したもので、学習者の言語体系が途中で発達を止めてしまう現象を指します。ここで問題にされているのは、うっかりした言い間違いではありません。体系として固まってしまうことのほうです。

この概念自体、50年たっても議論が続いていて、どこまで避けられないものなのかは決着していません。ですから「直さないと固まってしまう」と恐れる必要はありません。

必要なのは、全部を直してもらう環境ではありません。ときどき誰かが一つか二つ拾ってくれる場が、どこかにあればいい。それだけです。逆に、毎回の発話を採点されるような場は、発話量そのものを減らしてしまいます。

「間違えても大丈夫」と言い聞かせるだけでは足りません

考え方を変える取り組みだけでは、発話量はあまり増えません。

「間違えるのは当たり前だ」と自分に言い聞かせる。この種の助言はよく見かけますし、背景には Carol Dweck のマインドセット論があることが多いです。ただ、この路線の効果は期待されているほど大きくありません。Sisk らは2018年、マインドセットと学業成績の関係を調べた2つのメタ分析を発表しました。対象は273の効果量、およそ36万6千人分という大規模なものです。それでも、全体としての効果は弱いという結果でした。介入研究のほうも、典型的な生徒に対してはほとんど効果が見られませんでした。効果が示唆されたのは、経済的に厳しい層や、学業上のリスクを抱えた層に限られます。

間違いを前向きに捉える構えが無意味だという話ではありません。標語を紙に書いて貼るだけで発話量が変わることは期待しないほうがいい、という話です。Bjork 夫妻自身、間違いを学習の機会として解釈すべきだと述べたすぐあとに、それは言うほど簡単ではないと書き添えています。

英語を使う怖さを小さくする

ここからは研究の話ではなく、私自身の考えです。

怖さは考え方を変えて消すものではなく、間違える回数を増やして薄めるものだと思っています。順番としては、小さく間違える経験を先に積むこと。いきなり会議で発言するのではなく、一対一のレッスンで、訂正されることが前提になっている場所から始めます。訂正が仕事として組み込まれている場は、実は一番安全な場所です。

もうひとつは、自分の課題を他人と比べないこと。比べる相手は3か月前の自分です。これは精神論ではなく、記録を取らないと成立しない話でもあります。何ができなかったかを書いておかないと、3か月前の自分が手元に残りません。

そして、間違いに対する態度でスクールや講師を選ぶこと。何を直すかを選んでいる講師がいい講師だと思っています。全部直す人は発話量を削り、一切直さない人は気づく機会を渡してくれません。

練習の設計そのものについてはデリバレート・プラクティスに、思い出す練習の作り方は想起練習にまとめてあります。

子どもが英語を間違えたとき、どう声をかけますか

年齢によって対応は変わりますが、間違いと子ども自身の価値を切り離すことは共通しています。

望ましい困難の研究は、大人と大学生を対象にしたものが中心です。Bjork らの2020年の論文も、この点を認めています。同論文が引用する Knabe と Vlach の指摘によれば、子どもの教室での学習について研究はほとんどありません。しかも幼い時期は、注意力、記憶容量、既有知識、メタ認知がそれぞれ違う速さで急速に発達します。だからこそ、ある子に効く負荷が別の子に効くとは限らない、という警告つきです。「大人にはこう効くから子どもにもこう」と言える段階にありません。

そのうえで、年齢帯ごとの現実的な線引きはこうなります。

どの年齢でも共通するのは言葉の選び方です。行為を指す言い方(間違えたところがあるね)と、人を指す言い方(できない子だね)は、英語でも日本語でも別のものです。英語の場合はさらに注意点があって、failure という語には人そのものを指す用法があります。この使い分けは「失敗」「間違い」の英語で詳しく書きました。

よくある質問

間違いを気にせず話し続けるのと、正確さを意識するのと、どちらを優先すべきですか

両方必要で、時間帯を分けるのが現実的です。話している最中は流れを止めず、終わったあとに詰まった箇所を確認する。訂正フィードバックの効果を示す研究が勧めているのは、話す量を減らすことではなく、フィードバックがある環境で話すことです。ですから発話中に自己検閲するのではなく、発話のあとに答え合わせの時間を置いてください。レッスンなら最後の5分、独学なら書き出した1文を辞書で確かめるだけでも成立します。

独学で誰にも直してもらえない場合はどうすればいいですか

正解が自分で確認できる練習に寄せてください。

いずれも「間違える機会」と「正解が届くこと」が同じ作業の中に入っています。人の目が必要になるのは、自分では誤りだと気づけない箇所です。そこは定期的に誰かに見てもらう時間を確保するしかありません。英単語一覧のような自己テストできる教材も、同じ理由で使えます。

難しすぎる教材で間違いを増やすのは効果的ですか

逆効果になります。Bjork らが繰り返し強調しているのは、困難が望ましくなるための条件です。ひとつは、学習者がすでにそれに対応できる知識を持っていること。もうひとつは、最終的には乗り越えられる水準であること。この二つがそろって初めて、負荷は望ましい困難になります。手も足も出ない教材は望ましくない困難で、間違いの数だけが増えて学習は起きません。目安として、辞書なしで大意がつかめるかどうかを見てください。教材の難易度の考え方は難しい英語でも扱っています。

間違えるのが怖い気持ちは、そもそもなくなりますか

なくなるというより、小さくなります。恐怖が消えてから話し始めるのではなく、話す回数を増やすことで恐怖が小さくなっていきます。ここは研究で数字を示せる部分ではないので、私の考えとしてお読みください。ひとつだけ確かなのは、間違いを避けているあいだは発話量が増えず、発話量が増えないあいだは怖さも小さくならないということです。


間違えることは失敗ではありません。間違えたまま答え合わせをしないことが、学習にとっての失敗です。

参考文献